健康太一ミニコラム:体を、緩め、開き、伸ばし、張る!

健康太一ミニコラム:体を、緩め、開き、伸ばし、張る!

 

2020年冬号画像
「緩めること」と「張ること」、一見、矛盾・相対するような体の使い方が、実は、本当の意味での心身の解放にもつながる、とても大切なことかもしれません……

44 体を、緩め、開き、伸ばし、張る!

体を、緩め、開き、伸ばし、張る!画像

矛盾力(遠くへ、遠くへ行こうとする力が働くと内へ内へ向かおうとする矛盾した力が働く)

現代人のハンパない緊張感……

ニコニコ太一気功のサークルでは、2008年のサークル開始当初から、心身を緩めることの大切さを強調してきました。しかし、最近は、そのことに加え、「開き、伸ばし、張る」ことの大切さについても、しばしば言及し、その実地練習も重ねるようにしてきています。

つれて、この「健康太一ミニコラム」でも、

⇒ 易筋経で「張力」を磨き、養おう!
⇒ 気持ちよく、体を伸ばすということ

と、立て続けに、この点について取り上げてきました。

にもかかわらず、今回またもや同じテーマを取り上げようとするのは、やはりそれだけこのことが大切だと思うのと、その反面、なかなか本質的な部分(多分)での理解に届きにくいところもあるように思えるからです。

というのも、私たち現代人は、緊張感がハンパなく、伸ばすのも力んで緊張、張るのも緊張、開くのも緊張、さらには緩めることさえ緊張、というように、大小の緊張が絶え間なく続き、しかも問題なのは、その自覚にさえどうも欠けていて、ほとんど体質化されているようにも見えることです。

心身の根深い緊張感をどう取り除いていくか

では、こうした心身に染み込んだような緊張をどう取り除いていくのか――このことをまた多少視点を変えて、ここで考えてみたいのです。

たとえば、サークルでは、立位の姿勢で両腕を横に一文字に広げ、中指の先を「遠くへ、遠くへ」伸ばすという練習をしています。

やってみるとわかりますが、できるだけ左右両中指の先を遠くしようと力んでやってみても、指先はあまり遠くへは伸びてくれません。

それは、力めば力むほど、腕が緊張して縮こまり、かえって逆効果になるからです。むしろ逆に、体の力を抜いて、主に意識を(緊張せずに)使って、「遠くへ、遠くへ」と運ぶようにすると、案に相違して、伸びが感じられるものです。

そして、これ以上は、伸びないかなと思っても、そのときに、ちょっと肩甲骨と肩を緩めようと思うと、また指先が伸びてくれます。それから今度は、肘、手首、手指と、同じようにしてやってみると、その都度、遠くへ伸びる感覚が、(微細ではありますが)体感できると思います。

緩めようという(緊張を解いた)意識、気持ちのもって行き方が、指先をさらに遠くへと伸ばしてくれるわけです。

緩めないと伸びない……

フツーに考えると、緩めると、短くなるように思いがちですが、そんなことはなく、むしろ逆に伸ばしてくれるというわけです。

つまりは、「緩めること」と、「開く、伸ばす、張るといったこと」は、けっして相矛盾するものではないということです。

というか、緩めないと伸びない、ということにもつながります。

ですから、今、サークルでは、易筋経をやるうえでの導入部として、これをしっかりやり込むようにしています。

「通臂」で全身に気や勁を通す

ちなみに、峨眉気功では、通臂といって、このことを大変重要視しています。「臂」とは、肩から手首までの腕のことをいいます。そこに「通」すのは、気という生命エネルギーであり、勁という言ってみれば、拙力(緊張した力)によらない力のようなものです。それによって、肩甲骨から肩、腕、指先に気や勁を通すという練習をするわけです。

先に述べた両腕を一文字にして横に伸ばしてするのが「一字通臂」。このほかにも「上下通臂」や「左右通臂」あるいは「蛇行蚕蛹」(だこうさんよう、蛇行踊動ともいいます)といって、まるで蛇や蚕のように、クネクネと勁を通していくやり方、さらには「鷹爪(おうそう)掌」や「虎爪(こそう)掌」というような指先にまで勁を通すような方法もあります。

実にバラエティー豊富で、ある意味ビックリさせられますが、結局、それだけ、この通臂が、全身に気という生命エネルギーを満たし、疎通させていくための基礎となる重要な準備功法といえるものだからでしょう。

そして、この通臂の背景にあって大切なのが、今しがた述べた、「緩めつつ、開く、伸ばす、張る」といった、一見、相反し、矛盾するような方法論というわけです。個人的にはそう思っています。

「矛盾力」を養う意拳という武術

話は少し飛びますが、意拳という中国発祥の武術があるのをご存知でしょうか。このなかに、矛盾した力を養う基礎功法があります。

たとえば、立位で両腕で大きなボールを抱え(いわゆる站椿の姿勢です)、自分の頭を、球体とイメージします。そして、その頭である球の上下、左右、前後にバネのようなものがついていると想像します。すると、頭を下に下げようとすると、頭の上にあるバネが(当然、左右、前後にあるバネも相応の影響を受けますが)抵抗するように働きます。

つまり、下に行こうとすると上に、右に行こうとすると左に、前に行こうとすると後ろに働く一見矛盾・相反する力が感じられるわけです。逆の動きをする場合も、むろん同様の感覚が生まれます。

あるいは別のやり方では、站椿の姿勢から、手首から下が泥の中に埋まっているとイメージします。泥から手を引き抜こうとすると、泥の粘着力が邪魔をして手が抜けません。逆に、手をさらに突っ込もうとしても、やはり泥が邪魔して、その動きに抵抗しようとします。そんなイメージを、同じく上下、左右、前後にしてみると、やはり矛盾・相反した力の感覚が生まれることになります。

いまから7、8年前になるでしょうか、オー、そんなイメージを重視した方法があるのか(だからこそ“意拳”というのでしょうが)、これは面白そうだと思って、これらを暫くの間、やってみたことがあります。

しかし、そのときは、もちろんやり方の拙さもあるのでしょうが、筆者にはあんまり上手くできませんでした。

イメージ操作主導のやり方は結構、難しい……

というのは、イメージを働かせるといっても、すぐにあれやこれや次から次に雑念が湧いてきて、なかなか当初のイメージを持続することができません。動作自体は簡単でも、イメージ力を使うというのは、随分、難しいものなんだなあ、と思ったことを覚えています。

ちなみに、坐禅は、静かに坐って自己を内省する行法といえるでしょうが、こちらのほうも若いときにやってはみたものの、なかなか上手くできず、長続きした験しがありませんでした。やはり、すぐに雑念が浮かんでは消えして、落ち着いて持続することができません。疲れているときなどは、すぐにウトウト眠ってしまいます。

そんなことは気にせずに、ただ坐っていなさい(只管打坐)ということもいわれるのですが、個人的な性分にもよるのかもしれませんが、それほど簡単なものではありませんでした。そんなこともあって、「動く禅」といわれる太極拳のほうに関心が向かったようにも思います。太極拳はやってみて、体を動かすこともあって大変面白く、1970年代から始め、今に至っても愛好しています。

体というフィルターを通すことの重要性

意拳から坐禅へと話が飛んでしまいました。話を改めて「緩めつつ、伸ばす(開く、張る)」という一見矛盾した力の使い方のほうに戻しますと、サークルで今やっている方法というのは、単に意識ばかり使うというのではなく、そこに“体の感覚”を使っている、という点に大きな違いがあるように思います。

つまり、(緊張を解いた)意識を用いつつも、そこに体というフィルターを通すことで、体の感覚の変化を現実に、如実に「観る」ことができます。イメージ主導の際に往々にして陥りがちな“空回り”を避けることもできそうです。微妙な差かもしれませんが、そこのところが、実に大きな違いだと思うのです。

事実、この「緩めつつ、伸ばす」ということをやっていると、また別の感覚が生じてくるのにも気づかされます。

どういうことかというと、立位になって、先に述べたやり方で両指先を「遠くへ、遠くへ」とやっていくと、逆に、中心の軸が意識されるようになってくるということです。

つまり、伸ばせば伸ばすほど、内側がしゃんとしてくる、伸展すればするほど圧縮というか収斂(しゅうれん)してくる力が強くなる。外へ行く力と、それに相反するかのような、内に集まろうとする力、そんな拮抗する力が感じられるようになるのです。

それは多分、伸ばすにも支点がなければ伸びす、伸びれば伸びるほど支えるポイントもしっかりしなければ全体としてのバランスがとれない、という理屈なのでしょう。

このことは、単に先の「通臂」にとどまらず、太極拳を長く続けてきて、なんとなくわかってきた感覚でもあります。これも、いわば、“矛盾力”のまた別の側面といえるかもしれません。

ただ、これまでは体の感覚としておぼろげに掴んでいたことが、最近、易筋経を勉強するようになって、ようやくそのことの意味が比較的明瞭に痛感されるようになってきたわけです。

この、イメージ操作主導でなく、体を通して理解するというやり方は、太極拳もそうでしょうし、アシュタンガヨーガに代表されるように積極的に体を動かしていくヨーガのスタイルでも同様ではないか、と思います。

人が本来持つ生命力に目覚め、心身を解放する

では、そうして何をしているのかというと、正直なところ、そのことを論じるにはまだ境地があまりに低く、あれこれ申し上げるのは憚れるのですが、直感的にいえば、先にも少し述べた、気という生命エネルギーを全身に満たし、疎通させるためであり、それによって、体を隅から隅まで“浄化”して、人が本来もつ生命力を十全に発揮させようとするところにあるのではないかと、思っています。

そして、その向こうにさらに何があるかというと、これも直感的には、それは、真の自己とは何なのか、このことを静かに落ち着いて内省する、観つめるためである、というふうに思っているのですが、さて、どうでしょうか。

話を冒頭の「心身に染み込んだような緊張をどう取り除いていくのか」というところに戻すと、ヨーガ、気功、太極拳というのは、そのための実に偉大な方法論であり、本当の意味での個々人の心身の解放につながる、古人が今に伝え遺してくれた、それこそ“人類の叡智”とでも呼べるものではないか、と今はそのように思っているところです……。

***

また、例によって、話が長引いてしまいました。当否は別として、今、ニコニコ太一気功のサークルでやろうとしていることは何なのか、はなはだ覚束なくとも、これから先、どこに向かいつつあるのかの一端をご理解いただければ、たいへん幸いです。

そして近い将来、希望者を募って、どこかで“瞑想”でもやれるといいなあ、と、2020年の幕開けに際し、個人的にはそんなふうに思う今日この頃です。 (⌒-⌒)ニコニコ

43 気持ちよく、体を伸ばすということ

42 易筋経で自分自身を勁(つよ)く変えていこう!

41 易筋経で「張力」を磨き、養おう!

40 頭がボ~として働かない、疲れてる!

39 上がらない左腕が上がるようになった!

38 O脚が5分で治った!?

37 行き過ぎ、偏りに注意しよう!

36 「呼吸」について(続)

35 「呼吸」について

34 健康、養生はまず「足元」から!

33 気功をしている人の手は綺麗!

32 トータルに「整体」しよう!

31 朝起きたとき、片目が開かない!?

30 前屈みや猫背の姿勢を真っ直ぐにする簡単な方法

29 気血の流れがよくなり20代に若返り!?

28 「脾」の季節に役立つ気功法

27 夏の暑さに負けない気功法

26 歳をとると、なぜ腰が曲がるの?

25 一生楽しめる健康法!

24 体を柔らかくする八卦柔身功

23 三骨軽打法について

22 甩手(スワイショウ)はどれくらいすればいいの?

21 百病を癒す甩手!

20 練功から煉功へ!

19 ”ただ立つだけ”で心身が整うの?

18 放鬆功で心の緊張を解放しよう!

17 結構すごい、ツボの効果!

16 気が流れると痛みが消えた!

15 “湿邪”から身を守ろう!

14 前後の甩手(スワイショウ)考

13 猫背を癒す簡単な方法

12 体の前後揺すりで背骨に気を通す

11 体のバランスを取り戻しましょう!

10 気功的平衡ということ

09 体の固着から解放されよう!

08 凝り固まった思い込みから解放されよう!

07 何かをするということ、何かをしないということ

06 体幹と末梢運動について

05 姿勢美人と中心力

04 “力ずく”とは、なんとも無粋

03 静止して動く!

02 “脱力”のちょいヒント

01 ありとあらゆるものにある開合のしくみ